「TPPと日本の食料・農業」

日本乳容器・機器協会第6回オープンセミナーは10月6日東京コンファレンスセンター・品川で開催されました。上田会長理事からのご挨拶、新任の厚生労働省道野監視安全課長の来賓挨拶に続いて、明治大学作山准教授が前日に大筋合意に達したTPPについて標記のテーマで講演しました。この講演録は作山准教授の許可を頂いた録音をベースに私が書き起こしたもので文責は事務局にあることを念のため申し添えます。(TF)

初めに

ご紹介頂きました作山です。本日はお招き頂きまして有難うございます。私も無論昨日TPPが大筋合意するとは想定しておりませんでしたので、お配りした資料は大筋合意する前の状況で用意されたものです。しかしながら大筋合意の内容については、既に発表されておりますのでその内容も加味しながらお話しをさせて頂きます。既にご承知のようにTPPとは環太平洋パートナシップ(Trans-Pacific Partnership)の略でありまして、交渉参加国は最後に参加した日本を含めて12カ国です。

この交渉は21分野で行われているとされていましたが、発表では31分野となっておりました。このすべての分野についてお話しすることはできませんので、物品市場アクセス、端的にいえば関税撤廃について取り上げたいと思います。まずお話しに入る前に、私とTPP交渉の「関わり」について少しご説明したいと思います。私は1988年に農林水産省に入省し、1995年から2007年までの留学を含む3回の海外赴任を経て、2007年には農林水産省国際交渉官(課長級)に就任致しました。2010年から2013年は日本がTPPに参加するための交渉を担当し2011年から2012年は内閣官房国家戦略室に併任となっていました。

今回の講演ですが、TPPについて世間では誤解されていると思われる2つの逆説を切り口にお話ししたいと思います。先程も申し上げたように資料には大筋合意の内容は反映されていませんが、その背景の理解には十分にお役に立つと自負しています。

逆説1:TPPの狙いは乳製品の関税撤廃

逆説1で乳製品を取り上げましたのは、今回日本乳容器・機器協会のセミナーで講演させて頂いたからではありません。私はどの席でも、TPPについてお話をする時はこのお話しをさせて頂いています。それはTPPの交渉が乳製品の関税撤廃を動機としているからです。TPPの始まりは2001年のニュージランド・シンガポールの2国間FTA(Free Trade Agreement自由貿易協定)で、2006年にチリとブルネイが参加してP4協定が成立しますが、その当時は日本ではそれ程注目されておりませんでした。2010年にこのP4協定に米国等が参加することになって、日本でもTPPが話題になり始めてきたわけです。その後日本も2013年に交渉に参加するわけですが、日本においては「TPPは米国の戦略だ」とか「TPPは米国の主導で形成された」というご意見がありますがこれは誤解と言えます。なぜならばTPPはニュージーランドが最初に発想したものだからです。

ニュージーランドはTPPの生みの親ですが、なぜニュージーランドがこんな発想をしたのかという背景をご説明したいと思います。まずニュージーランドの人口は僅か450万人で、その市場規模は世界的には相対的に小さく、輸出先市場としては魅力に欠けているためFTAの締結相手国として選ばれないという問題があります。

また乳製品を含めた関税率は2%で相手国にとってFTAを締結するメリットが乏しい一方で、例えば日本の乳製品の関税率は135%と非常に高いレベルにあり、乳製品の輸出にとって障害になっています。

これに加えて乳製品が輸出額の3割を占め、ニュージーランドにとって乳製品は輸出のなかで日本の自動車のような位置を占めているわけです。

このためニュージーランドは、農産物の輸出では競合する隣国のオーストラリアと比較しても、日米両国とのFTA締結交渉が出遅れているという問題に当時直面していたわけです。

そこでニュージーランドがとった戦略が「積み石アプローチ」(Building Block Approach)と呼ばれるものでした。これはまず、関税撤廃に関して高水準な自由化が可能な小国間でまずFTAを締結し、この水準を満たす国々を徐々に受け入れていくことにより、最初から多数の国々で交渉するより、より高水準の自由化を達成し相手国の乳製品の関税撤廃を確保するというものです。

この展開を具体的にTPP参加国の農産品関税率で確認してみると、ブルネイまでが関税率がないか低い国々のFTAの延長であったのが、米国の参加以降は「農産品の関税撤廃は困難なのでTPPには入りたくはなかったが、おいてきぼりにはなりたくない。」という日本を含む関税率の高い国々の参加を引き出していることがご理解頂けると思います。交渉開始年で見てみると、1999年のFTAや2006年のP4の例外なしの関税撤廃の成果をアピールし、これによってアメリカが参加を決めると、日本を含めた残りの国々も参加を表明したということが時系列で確認頂けると思います。

次に議長国の地位というのがあります。マスコミの報道をみると、アメリカの代表が写真の中央に写っているのでアメリカが議長国などと誤解する方もいらっしゃるようですが、ニュージーランドはP4協定の寄託国(まとめ役)でありTPP交渉の議長国です。このため、同国のグローサー貿易大臣の発言のように、「この交渉を始めた最初の国々のひとつであり、TPPから追い出されることはない」わけです。
最後に先発国の裁量権として後発国の参加については拒否権を持ち、結果的に乳製品の関税撤廃への抵抗を未然に防止しているわけです。具体的には参加希望の後発国のある意味で「恣意的な」選別や、その参加についての一定の条件の付与といったことが水面下で行われたわけです。


逆説2:TPPの経済的メリットは乏しい

日本のTPP交渉参加の要因としては経済的、政治的、戦略的な要因があると考えられます。 まず経済的な要因を分析してみましょう。関税撤廃の経済効果を、関税全廃の前提にして試算した2013年の内閣官房の試算でも貿易赤字は拡大することが予測されていますし、また個別のFTAや他の自由貿易圏の構想と比較して日本にとってのTPP参加の経済的効果は乏しいということが、その経済効果や関税支払額の軽減の試算から立証されています。


RCEP(Regional Comprehensive Economic Partnership:東アジア包括的経済連携、ASEAN+日中韓+オーストラリア+ニュージーランド+インドの自由貿易圏構想)や日中あるいは日中韓FTAの方が経済的メリットは大きいことがわかります。言い換えれば、中国を含んだ構想の方が日本にとっての経済的なメリットは大きいということです。それに加えて日本はTPP参加国の内8カ国とEPA(Economic Partnership Agreement 経済連携協定)を締結済みであり、カナダとは締結交渉中です。つまり、関税の低い先進国であるアメリカやニュージーランドと2カ国と自由貿易交渉をするわけですから、経済的メリットはそれ程大きくないわけです。これが当時の農林水産省の主張でした。

次の政治的要因について言えば、「日米同盟の強化」とか「中国包囲網の形成」という言葉で語られているもので、2013年3月15日のTPP交渉参加決定時の安倍首相の発言のなかでは、「自由、民主主義、法の支配といった普遍的な価値を共有する(中略)経済的な相互依存関係の深化は我が国の安全保障にとって(後略)」というフレーズが示しているものです。これは当時の外務省の主張です。

最後の戦略的な要因ですが、日本のTPP交渉参加はEUや中国とのEPA等の交渉を推進するための戦略的な決定であり、日本の交渉参加決定がEUのようなTPP非参加国の国内の政治的力学の変化により、RCEP、日中韓FTA、日本とEUのEPA交渉に「ドミノ効果」をもたらすというものです。


これは例えば、これらの交渉の開始が日本のTPP交渉参加表明後に開始されたことが端的に示していると言えます。これは当時の経済産業省の主張でした。

TPPが日本の食料・農業の与える影響

関税全廃という前提での試算で2013年に農林水産省が行った試算によれば日本の農林水産業の生産額は11.1兆円から8.1兆円に3兆円減少し、食料自給率はカロリーベースで39%から27%に12%減少するとしています。

個別の品目でみると、同試算では生産減少額では現状で生産額の大きい米や豚肉、牛肉そして乳製品が減少し額が大きいのですが、生産減少率では輸入品との差別化が困難な砂糖、加工用トマト、でん粉原料作物などは100%の減少と試算しています。

またUSDA(United States Department of Agriculture, 米国農務省)の貿易収支の試算では、日本は農産物全体では57億ドル輸入が増え、乳製品でも輸入が8億ドル増えると試算しています。但しこれらはあくまで関税全廃という極端な前提であり、政府発表の試算であるので政治的な調整がされている可能性は無視できません。

実際の交渉の結果ですが、講演資料にある数字は大筋合意の前に報道されたものですが、大筋合意後に発表された数字と殆ど大きな差異はないようです。重要5品目と言われる農産物においては、関税率は維持しながら一定の輸入枠を設定することや段階的な関税率の削減とセーフガード(Safe Guard輸入急増時の緊急関税措置)の組み合わせといった合意内容のようです。

また当初懸念された食品安全や食品の表示要件については、TPP交渉では具体的な議論がされているわけでありませんので大きな影響は考えられません。むしろ同時期に行われた日米間の非関税障壁等の個別協議の内容では、食品添加物等に注目すべきものがあるのかも知れません。

まとめとTPP交渉の行方

最後に今後の流れですが、各国の行政府が大筋合意したからといって、すぐに関税引き下げが行われるわけではなく、TPPの発効に向けては図のような手順が必要です。各国における批准のための手続きは約半年後から開始されると思われます。大筋合意した内容には、TPPの円滑な発効のため批准に関しての特別な規定があるにせよ、日本は別として、米国、カナダといったGDPの高い国々の国会における批准には、現時点で既にかなり時間がかかることが予想されています。


作山 巧

作山 巧(さくやまたくみ)
1965年岩手県生まれ。ロンドン大学優等修士(農業経済学)、同サセックス大学修士(開発経済学)、青山学院大学博士(国際経済学)。1988年に農林水産省に入省し、外務省OECD日本政府代表部出向、国連食糧農業機関派遣、国際部国際交渉官(TPP担当)等を経て、2013年より現職。近刊は『日本のTPP交渉参加の真実:その政策過程の解明』文眞堂。