昭和六十四(一九八九)年一月七日、昭和天皇が崩御された。政府は、昭和天皇の崩御を受け、その日の午後、八人の有識者で構成される「元号に関する懇談会」と衆参正副議長を加えた十人に「平成」「修文」「正化」という三つの新元号候補を示し、意見を聞いた。その際、委員の間から「修文」「正化」の2候補はローマ字表記の頭文字が「昭和」と同じ「S」になるので不都合ではないかという意見が出て、その結果全員一致で「平成」に決まったと伝えられる。新元号は同日十四時十分から開かれた臨時閣議で正式に決定され、十四時三十六分、当時の小渕恵三内閣官房長官が記者会見で発表した。皇太子明仁親王(今上天皇)の即位のため、元号法に基づき翌一月八日に「平成」と改元された。
昭和天皇は昭和六年満州事変から昭和十六年太平洋戦争開戦、そして昭和二十年日本の無条件降伏による戦争終結と、激動と苦難の時代を歩まれたが、戦後は復興のため国内行脚や、国民の象徴としての様々なご公務を通じ、国民にはより親しみ深い天皇となられた。 平成元年二月二十四日、昭和天皇の「大葬の礼」が行われ、当協会の代表として浅野勉理事長が参列した。小雪混じりの寒い日であったと記憶している。
そして、平成の時代の幕開けである。いよいよ協会の念願であった紙容器の自主基準作成の段階に入るのである。
平成五年六月一日開催の理事会において協会の会議体が審議され、理事会の下に乳栓部会と紙容器部会を設置し、それぞれに技術委員会を設ける事が決定した。同時に、乳栓部会長には稲葉幸一理事(三陽紙器)、紙容器部会長には勝山康典理事(日本テトラパック)が選任された。この理事会の結果に従い、同年七月八日、勝山紙容器部会長は紙容器部会を開催した。この紙容器部会で浅野勉理事長は挨拶し、先の理事会での審議経過を説明し、部会長のもと協会としてより良い自主基準を検討審議され、理事会に提出されるよう要請した。
この日出席した厚生省担当官からは、乳等の紙容器について、消費者が安心するような自主基準を作成されることを期待している旨の挨拶があった。次に勝山紙容器部会長が議長となって、紙容器部会の技術委員会の構成メンバー・組織・運営について、審議して、次の通り決定した
1 紙容器を生産する会員会社は、全員が原則構成メンバーとして参加する。
2 技術委員会委員長には、日本テトラパック島崎邦夫氏を指名する。
3 自主基準のたたき台作成については、ワーキンググループで行うものとする
4 自主基準(案)ができた段階で全員が参加して紙容器部会を開催する
5 自主基準(案)が紙容器部会で決定すれば理事会で審議することにする。
また、紙容器の衛生取扱い自主基準(仮称)について、第一回目の技術委員会は、フリートーキングとし、厚生省担当官の出席を要請した。その結果平成五年七月十五日、第一回目の技術委員会が開催され、次のメンバーで自主基準の討議が始まった。
日本テトラパック(株) 十條製紙(株) トーエーパック(株) アイピーアイ(株) 東京製紙(株) 凸版印刷(株) 東罐興業(株) 藤森工業(株) 三陽紙器(株) 大日本印刷(株) 事務局 全国乳栓容器協会 厚生省 |
島崎 邦夫(委員長) 田口 英典 阿部 敏夫・森田 和義 鷲主 克彦・辻本 久夫 坂本 辰彦 鈴木 敏雄 山口喜三郎・多田 国昭 岩坂 良知・大橋 春雄 稲葉 弘文・小林 宏 角田 裕孝 瓜谷 龍一 担当官 |
技術委員会の目的は、紙容器および充填包装システムとして衛生面、強度要件等について遵守すべき自主規格・基準及びそれらを実施するための要綱を作成することを目的とすることとした。自主基準の主要項目としては以下のような項目が挙げられた。
1) 原材料の選定・包装・輸送・荷受け・検査・保管などについて
2) 包材への加工などについて 加工工場及び加工工程・管理の衛生要件
3) 包材の規格
4) 乳等の処理工場への出荷・輸送について
5) 乳等の処理工場における包材保管・充填包装作業及び製品の保管・出荷・輸送に関する要請
6) 販売店・消費者の衛生的取扱いに関する要請
7) 実施要綱(検査法を含む)
これらを、ベースに原案作成の検討を進めるたたき台とすることとした。つぎに、当委員会の名称を「自主基準作成技術委員会」とすること、自主基準の名称を「乳等の紙容器に関する自主基準」とすること、議事の進行方法については次回に討議すること、議事録の配布方法、ワーキンググループのメンバー選出と担当が決定されたがこれらの詳細については次回で述べることとしたい。