日本牛乳キャップ協会が設立されるまでのことについて、次のことを語らないと先人たちの苦労が無になってしまうと思ったので、事務局の求めに応じて思い出すままに記してみることにした。
昭和十一年の二・ニ六事件を契機に日本は軍国主義の色彩が濃くなってきた。そして昭和十六年に日本の運命をかけた太平洋戦争に突入すると、戦時経済下、当時まで牛乳壜のふたの主流であった王冠は、金属配給統制のため統制され、紙キャップが主流として使用されるようになった。牛乳は配給制となり、あらゆる物資の統制も強化され、当然キャップの原材料も統制された。 当時尚山堂、弘野牛乳用品店、王冠コルク商会(現宝冠)、山下正光堂、清水製作所(現中国乳栓)等は牛乳キャップ同業会を作り牛乳キャップ原材料の配給制に対する対応につとめた。その後昭和十九年、会を強化するため、事務所を尚山堂内に置いて、牛乳キャップ同業会として動きはじめた。統制された原材料の割り当て、配分その他の業務が主務であり、この時代より、日本牛乳キャップ協会を経て、後の全国乳栓容器協会まで尚山堂の故浅野武矩氏(写真)が同業界のリーダーとして力を尽くすことになる。
太平洋戦争が拡大するに従い物資は窮迫し、キャップ原紙の質も落ちた。パラフィンも石ロウが多く、あらゆる資材は極度に節約された。当時直接の軍需品ではない牛乳キャップの製造には何も特典がなかったが、先人たちは、次代を担う子供のため、病床に牛乳を求める患者のためには牛乳は不可欠と、空襲の合間を見て牛乳キャップの製造を続けたのだった。
戦後牛乳業界では、昭和二十一年に東京飲用牛乳協会(後に全国牛乳協会の主軸となる)が設立された。同じく全国ミルクプラント協会が設立され、翌年には全国飲用牛乳協会と改称され、後に現在の日本乳業協会へと発展してゆく。同時に全国各地に牛乳プラントが復興し、牛乳キャップの需要は急速に増加してきた。また、牛乳キャップの需要増にしたがい、牛乳キャップメーカーも全国各地に散在するようになった。