日本紙パック株式会社 椿山 佳明

日本乳容器・機器協会誕生の経緯 その2

平成16年6月9日、市ケ谷のホテルグランドヒルで社団法人はっ酵乳乳酸菌飲料協会の総会が開催された。私は青島事務局長ともども総会後の懇親会に参加したが、この席ではっ酵乳乳酸菌飲料協会の監事で四国化工機の植田英雄会長と、厚生労働省輸入食品安全対策室長にお会いした。いうまでもなく植田会長は日本乳機器協会会長の四国化工機植田和雄相談役の実弟である。輸入食品安全対策室は監視安全課の一角にあって、監視安全課とは密接な関係にあり当時の室長はのちに監視安全課長に就任されている。ここで、室長から植田会長、青島事務局長に、前年いったん立ち消えになった協会の統合について、見直しをしたらどうかという話が出た。

写真2日後の6月11日、今度は全国乳栓容器協会の第43回総会がKKRホテル熱海で開催された。この総会で浅野会長が勇退して名誉会長となり、日本紙パックの臼井征之社長が第3代会長に就任した。副会長は日本テトラパック柚木善清社長、東洋製罐梶山滋常務取締役、尚山堂阪井政光社長だった。浅野名誉会長は常々、「とかく利害の相反する同業者をまとめるためには、衛生と安全という共通のテーマに取り組むことが重要」ということを繰り返し訴えてこられた。臼井新会長は就任の挨拶で「(これまで)とかく利害相反しやすい同業者を、浅野会長のご人格により、衛生問題という共通の認識の上で取りまとめてこられました。当協会は現在厚生労働省から牛乳容器に関連して唯一認可された社団法人であります。当協会を同業者の友好組織でなく、りっぱな公益法人に育て上げられた浅野会長と、歴代の事務局長、とりわけ今回顧問に就任されました青島前事務局長のご尽力に私は深く敬意を表するものです」と延べ、浅野名誉会長の精神の継続を訴えた。「衛生問題を共通認識として公益性の高い活動を行う」という浅野名誉会長の精神は今も協会に根付いており、一般法人化したのちも変わらないと思う。浅野名誉会長の御人柄とほのぼのとした風貌は多くの人たちに愛されていた。

ついでに言えばこの総会で、私は青島事務局長の後をついで事務局長に就任した。法人整備委員長は福田利夫委員にお願いすることになり、法人整備小委員会のメンバーも東洋製罐の中田一範委員、ソロカップジャパンの森田宏尚委員、尚山堂の依田昌宜委員とがらりと変わった。

総会には例年、厚生労働省から来賓をお招きして時事の食品安全行政についてご講演を頂くが、この年は当時の監視安全課長が講師だった。ところで講演が終盤に差し掛かった時、話題は食品安全行政の話しから政府が進めている公益法人整理の動きに移った。そして昨年で一旦休止している日本乳機器協会との統合協議を再検討したらどうかというお話になった。この総会以降、協会統合の論議が再び進められることになる。

ちなみに来賓が帰京されたあと、夕刻からはホテルの宴会場で懇親会となる。日本乳容器・機器協会の総会はこのところKKR東京が定席だが、全国乳栓容器協会時代以来地方の観光地、中でもKKR熱海ではしばしば開催された。熱海の宴会といえば何人かの芸妓も呼ばれ、さぞおにぎやかだったと思うのだが、このところ寄る年波で、宴会の記憶は微塵もない。

平成16年7月1日、全国乳栓容器協会の事務所が町田市の尚山堂内から乳業会館の6階に移転した。協会事務所を会長会社から独立させることは、法人整備小委員会の論議でも都度話題になってきたことだが、協会の財政からその実現は誰も遥か将来のことと考えていた。ところがひょんなことから乳業会館の現事務所に移ることになった。今の事務所はもともと国際酪農連盟日本国内委員会(JIDF)が入っていた事務所だ。当時の公益法人見直しにより平成16年JIDFは財団法人日本乳業技術協会の一部として位置づけられることになった。そのためJIDFの事務所は日本乳業技術協会内に移ることになった。全国乳栓容器協会の会合はその頃もしばしば乳業会館の会議室で開催されていたが、ある日、会合の後、誰かが事務所問題を論議した議事録を会議室に置き忘れた。(と、青島顧問はおっしゃっている)それを乳業会館の大家さんである日本乳品貿易の広居課長が拾って見ると、事務所を探しているが資金はなく、困っている全国乳栓容器協会の窮状が記されていた。広居課長はたまたまJIDFの後が空室になるが、入居するならば乳業関係の団体が望ましいと考えており、破格の条件で全国乳栓容器協会を入居させて下さることになった。おまけにJIDFで使われていた多くの書棚、机、椅子などが乳技協に持ち込めず廃棄予定だったので、使えるものはマホービンからハンガーまで、全て無償で提供していただくというおまけまでついた。あまりに話がうまく進むので、どうしても私は青島顧問の暗躍、もとい、陰のご尽力を想像せずにいられない。

総会が終わり事務所もめでたく乳業会館の6階に移った。青島顧問は当面一年間、頼りない新事務局長を半分常勤のようにサポートしてくれることになった。私の数少ない美点を申せば、自分にできないことを、自分の限界を自覚していることで、よく言えばソクラテスのごとき「無知の知」の態度であり、言い換えると「できないことを投げやりにする」「やりたくないことをひとまかせにする」態度ともいえる。このときも、協会の経理などの事務はあっさりと放棄し、社内から江刺家敏君を引きずりこんで、全国乳栓容器協会事務局次長なる肩書きをでっち上げ、協会の様々な実務を押し付けることに成功した。

総会後の登記などの仕事も片付いて、といっても実際に仕事をしたのは江刺家君だけれども、7月27日、臼井会長、青島顧問、私の三人は厚生労働省にご挨拶に伺った。監視安全課にお邪魔すると、監視安全課長、輸入食品安全対策室長、監視安全課長補佐のお歴々がお揃いでお出迎え下さった。ここで監視安全課長からあらためて乳機器協会との統合について、「行政としても協力するので再度検討願いたい。ついては、統合実現を目標としていただきたい。」というお話が出た。さらに、「日本乳機器協会は解散して全国乳栓容器協会に統合されることを了承しているが、あくまでも対等で統合して欲しい。一部入会しない会員がいるかもしれないが、有力な会員の岩井機械さんは入会を承諾している。8月中には実務者の打ち合わせを開始して欲しい。第1回の会合には課長補佐も出席する」という具体的なスケジュールにまで踏み込んだお話になった。厚生労働省から帰った夕方、臼井会長が、会社近くの料理店に浅野名誉会長、副会長、青島顧問をお招きし、新会長として今後の協会運営にご協力を願う上で、懇親会を催した。ここで監視安全課長から伺ったばかりの話を報告し、副会長全員から統合協議再開に同意をいただいた。この座敷で柚木副会長から、日本テトラパックに入社する以前のご経験に基づく楽しいお話をたくさん伺ったはずなのだが、残念ながらこのお話も今となっては記憶のひだのなかですっかり霞んでしまった。

8月には法人整備小委員会が開催され、乳栓容器協会内の論議は進めていたが、日本乳機器協会との統合協議は、夏休みやら何やらで少し遅れ、平成16年9月2日になって再開第1回の検討会が開催された。この日、乳業会館に集まったのは、厚生労働省輸入食品安全対策室長、監視安全課長補佐、日本乳機器協会難波専務、米田理事、石井事務局長、全国乳栓容器協会青島顧問、福田法人整備委員長、中田委員、依田委員、森田委員、事務局椿山、江刺家というメンバーだった。

冒頭、室長から、「昨年、両団体の統合の話があったがその後中断している。先般、監視安全課長から両団体の会長に再度統合問題について話をした。その時に申し上げたとおり、基本的には存続団体は全国乳栓容器協会になるが、受入れ団体側には幅広い見地から、寛容な態度で、統合を前提として対応していただきたい」というご挨拶があった。前年、少しギクシャクした状態で協議が止まったことへのご配慮で、まずは円満なスタートを切らせて頂いたということになろう。

実質的な統合協議は9月21日の第2回統合問題検討会でスタートした。乳機器協会側の要望は①名称:「日本乳栓容器・乳機器協会」、②両団体の役員の数と、統合後の役員の数から適正な役員数を増員要請し、役員候補は容器、機器で枠組をきめない。③残余財産を全額寄付する見返りに入会金の免除と、一定期間会費を軽減すること。④事業企画運営委員会に乳機器のメンバーをいれること、というものだった。名称については「栓」を入れるか入れないか「・(ナカグロ)」を入れるか入れないか、「乳」はひとつでよいのではと、ちょっともめた。古くからの会員は「栓」にこだわりがあるし、乳機器メンバーは機器の前の「乳」にこだわりがあるという具合だった。監視安全課の総務係長にも相談した結果、「日本乳容器・機器協会」でいくことになったと記憶している。

ついで、10月19日の第3回統合問題検討会では統合協定書案の説明と討議が行われた。統合協定書に「事業の運営」として、乳機器部会の設置と乳業機器部会長が事業企画運営委員会に参画する条項を追加。また、会費については乳機器会員の会費を2年間は一律12万円とし、入会金は免除する条項を追加。臨時総会その他の統合費用、乳機器協会の残余財産の寄付などに関する協議もすすみ、両協会の統合は事務レベルで合意された。

さて、事務レベルで統合が合意されると、今度は統合にかかる手続きや準備の仕事に取りかからなければならない。しかも厚生労働省の認可を年度内に取るというタイムリミットもある。 早速、11月25日には事業企画運営委員会を開催し日本乳機器協会との統合及び定款変更に関する件を承認してもらった。ついで12月10日には第2回理事会を開催し、日本乳機器協会との統合、定款変更、平成17年度事業計画案並びに収支予算案、臨時総会開催の件を承認していただき。明けて平成17年1月21日、飯田橋の家の光会館で臨時総会を開催するまでこぎつけた。当日の来賓は厚生労働省監視安全課長だった。議事は、第1号議案社団法人日本乳機器協会との統合の件(統合協議の経過説明と統合協定書案の承認)。第2号議案定款変更の件(厚生労働省に提出する、定款変更理由書、及び定款変更案の承認。第3号議案平成17年度事業計画・予算(案)の件(平成17年度事業計画案承認、平成17年度収支予算案承認)と進み、第四号議案では諸規程整備の件として、法人整備小委員会に諸規程整備を諮問する件が承認された。

臨時総会の第4号議案承認を受けて、以後福田委員長、江刺家事務局次長を中心に法人整備小委員会で「就業規程」、「事務処理規程」、「会計処理規程」、「組織規程」等協会の諸規程が大車輪で立案されることになる。そもそも初期の全国乳栓容器協会には近代的な公益法人としての諸規程類がほとんどなかった。それが新指導基準の制定によって問題になり、青島前事務局長が整備を進めていたところだった。そこで日本乳機器協会との提携を前に、是非協会の諸規程を一新しようと言うことになった。規程案は全て江刺家君が一人で素案を立案し、それを福田委員長が逐条、実に懇切に確認、修正してくれた。この素案を法人整備小委員会に諮り、最終的に事務局案を作り上げていった。これは一に江刺家君と、福田委員長の尽力によるものだ。ちなみに江刺家君は外観や日頃の挙措からは想像できないが、高校時代には100メートルを10秒8で走ったというアスリートで、仲間内では「やるときはやる。飲むときは飲む。でも食わない」と言われている。最盛期には毎晩ウイスキー1本を小皿の付け出しだけで飲んだという、飲んだら乗るな、飲んでも食うなを信条に、酒と付け出しの日々を送っていた男なのだ。

また脱線してしまったが、平成17年4月1日。定款変更が認可され、社団法人全国乳栓容器協会は正式に社団法人日本乳容器・機器協会として再発足した。(4月20日登記完了)

しかしこれで統合が完了したわけではない。4月14日に開催された事業企画運営委員会では、協会の近代化を目的として、公益法人指導基準及び厚生労働省からの指摘に則して作成した協会の諸規程を説明。ついで日本乳機器協会石井事務局長から乳機器協会の解散手続きと新規入会の件が報告された。日本乳機器協会はこれに先立つ、2月7日に解散登記。3月29日には厚生労働省から「残余財産処分許可書」を受理。4月26日に清算人会が開催され、残余財産が確定(約三百万円)。五月末には厚生労働省に「清算結了届書」を提出するという段取りだった。同協会の会員は6社が入会する方向で作業が進められているとの報告だった。しかし最終的には乳機器協会からは7社全社が入会した。これは岩井機械工業の米田三早夫会長のご尽力によるものだった。米田会長は一時入会に消極的だった乳機器協会の会員に、「今後乳機器業界が海外展開をする上でも、その会社が日本の厚生労働省が所管する社団法人の会員として活動しているということは重要な意義がある」と訴えられたと聞いた。米田会長はその御重責の傍ら、協会統合の事務レベル協議にも熱心に参加され、我々ペーペーと時には厳しいやり取りをされた。

平成17年5月26日、日本牛乳キャップ協会以来第44回になる日本乳容器・機器協会の通常総会が開催された。名実ともに社団法人日本乳容器・機器協会がスタートしたことになる。 総会で選出された新役員は、名誉会長浅野勉、会長理事臼井征之(日本紙パック)、副会長理事梶山茂(東洋製罐)、同阪井政光(尚山堂)、同鈴木靖浩(日本テトラパック・新任)、理事石光正彦(ソロカップジャパン)、同三浦登(東罐興業)、同米田三早夫(岩井機械工業・新任)、同奥崎政美(女子栄養大学)、同森地敏樹(前日本大学教授)、同高谷幸(日本乳業協会)、同細野明義(日本乳業技術協会)、同伊東依久子(消費科学連合会 新任)、同佐々木春夫(日本包装技術協会)、同鈴木芳雄(日本食品機械工業会・新任)、監事小山内薫(クレスコ・新)、同横尾実(アイピーアイ)顧問 難波江、同青島 靖次、という陣容で、私が引き続き事務局長。江刺家君が事務局次長だった。

日本乳機器協会との統合が無事に完了し、日本乳容器・機器協会が誕生した。総会後米田三早夫理事から過分なねぎらいの言葉を戴いた。協会統合を一番喜んでくださったのは米田理事かもしれない。米田理事はその後岩井機械工業の会長を勇退され、乳機器部会は清水善治常務が部会長を継がれた。乳機器部会の活動はご承知のように着実に前進している。私は臼井会長の後を受けた第四代前田会長の任期の終了するまで、四年間事務局長をつとめた。 繰り返し書くように、私自身は何をしたわけではないが、歴代の会長、理事や事業企画運営委員会委員の皆さん、法人整備小委員会の皆さん、青島顧問、江刺家君、福田現事務局長のご協力で何とか辻褄を合わせてきた。

今回は事務局の話が中心になったが、本来それは裏話であって、協会の本義は当然ながら衛生と安全の問題である。私の在任中も多くの技術委員の方々が自主基準の改定や、厚生労働科学研究などの作業に、実に熱心に携わって下さった。技術委員すべてのお名前をここに記したいが、万一ひとりでも漏れがあると差し障りがあるので割愛させていただく。自主基準の冊子や、厚生労働科学研究にこれらの方々の労苦がしみ込んでいるということを申し上げてご勘弁いただきたい。
また、これらの協会活動には常に高谷幸先生、森田邦雄先生という良き理解者と、厚生労働省監視安全課、基準審査課、輸入食品安全対策室の皆さんの親身なご指導があったということを、感謝の気持ちを込めて記しておきたい。 (次号へ続く)