2016年(平成28年)もあっと言う間に8月を迎えた。最近の定期検診でも数値的に問題を指摘されたものもあるが、なんとかおしなべて年齢的にそれなりの状態を保っているようで、まだもう少し命長らえることができそうである。「前期高齢者」と言われる年になってみると、過去を振り返ることが多くなり、あの時はこうすればよかったと思うことも多々あるものだ。青島顧問の「思い出すまま」にはとても及ばないが、創設以来50余年を迎えた日本乳容器・機器の歴史のなかで関わった約10年につき、私の視点から記すことが読者の方々の興味を引くことができれば幸いである。なお直近の未だ「生臭い」ことは書けないし、協会関係者以外は実名を伏せる青島顧問のルールは踏襲させて頂くこととした。
2002年(平成14年)に話はさかのぼるが、当時私は日本テトラパックでコミュニケーションズを担当していた。本来不可算名詞のコミュニケーションにSが付いているのは社外向けと社内向けの双方のコミュニケーションをやりなさいということで、社外では広報誌の編集やホームページの管理、社内向けでは本社から送られてくる方針の和訳や社長の全社員向けのメッセージ原稿の作成や、イントラネットを使った社内伝達、そして社内報の編集と社内、社外を問わず多様な情報の交通整理的な仕事を3人のスタッフと行っていた。この種の仕事は具体的に関わっている部署やマネジメントの方々との各種の調整が必要で、その意味で営業、マーケティング、製品計画、品質保証、環境等、色々な領域を経験させてもらったことがこの仕事の糧になっていた。また特に勉強になったのは当時の日本テトラパック山路敬三元会長の「鞄持ち」で、大手新聞の環境ジャーナリストや、日本のトップ企業の環境担当の責任者の方々と企業の枠を超えた交流は大変良い経験になった。
さて8月にそれまで日本乳容器・機器協会のコンタクトパーソンをやっていた日本テトラパックのマネージャーが退職することとなり、他の協会等の窓口的な業務も行っていた私が引き継ぐこととなった。なにも分からないままに前任者に連れていかれたのが全国乳栓容器協会(当時)の法人整備小委員会という会議だった。この会議は当時の青島事務局長が進めていた、公益(民法)法人の新指導基準による定款の見直しや外部理事の選任などの作業を補佐するために設立された委員会で、青島事務局長の他に3副会長会社(当時日本テトラパック柚木社長は副会長だった)の委員から構成されていた。この8月の会議から参加したのが、元椿山会長理事(日本製紙)と私で委員長は前任者を引き継ぎ椿山氏が互選された。
なにも分からないままに参加した法人整備小委員会だが、2003年(平成15年)、2004年(平成16年)と回数を重ねるにつれ新参物の私にもこの協会が解決しなくていけない課題が見えてきた。簡単に言えばまさしく「民法法人としての整備」であって、具体的には創設以来の会長会社である尚山堂への過大な依存を減らし、協会としての活動を進めるための内外部を整備するための実施可能な手順を示すということになる。実はこれは「言うは易し、行うは難し」の典型のような課題である。今でも私は当協会の特徴を「小さくて」「まじめで」「貧乏」だと落語の3題噺のように説明するが、会員数が少なく容器包装の安全衛生については真摯に取り組みを進めているが、財務基盤が脆弱というのが当時の私の個人的な「強み弱み」分析の結果であり、またその後より深く協会と関わるようになってからの課題ともなった。
具体的には、尚山堂の本社に同居させて頂き事務局業務の殆どをお願いしているという状況から脱却し、自前の事務所を持つことや、創立以来尚山堂にお願いしてきた会長会社の就任ルールの見直しを行って新会長会社への移行を実現すること、そしてこれらにより必要となる原資を担保するための会費の見直しということになるのだがどれも一筋縄でいく問題ではなかった。ただ誤解を恐れずに言うと、この委員会での討議は私にとってとても参考になった。殆ど外資系一筋できた私には、それまでの協会運営の表も裏も知り尽くした青島事務局長や日本企業のコンセンサスの醸成のやりかたについては十分な経験をお持ちの椿山元会長理事他委員の方々は、時に原則論を声高に主張する私の発言にも耳を傾けてくれた。会議の後の飲み会もとても楽しいものだった。
さらに関連して解決しなくてはいけない、2つの「外的要因」による追加的な課題があった。まず乳栓容器協会と日本乳機器協会との「統合」に関する課題で、これは50年史に椿山元会長理事が精緻に経緯を記述されているので重複を避けるために本稿では言及をさけるが、数々の紆余曲折を経た2005年(平成17年)1月の統合まで、この件についての私の唯一の貢献は現在の日本乳容器・機器協会の英文名であるJapan Association of Milk Packaging & Machineryの提案ぐらいである。次が日本乳容器・機器協会スタート直後の定款の下部文書である規程類の整備でこの仕事が江刺家元事務局長(日本製紙)との出会いになっている。50年史では椿山元会長理事から過分な言葉を頂いているが、業務管理と数字に強くエクセルの使い手の江刺家事務局長が、時間をかけてつくられた20を超える規程の原案をほぼそのまま最終案化しただけで、強いて言えばISO14001がらみで文書管理を勉強したことがお役にたったのかも知れない。
さて最後に個人的なことに触れておかなくてはならない。私は2004年(平成16年)12月末をもって日本テトラパックを退職している。これは自分のやりたいことに人生で1回位はチャレンジしてみたいという我儘で、55歳という年齢や所属企業との「貸し借り」、言い換えればやっとお世話になった分はお返しできたかなという思い込み、またある意味で親の責任の完了である娘の卒業で「身軽」になったというような条件が整ったところへ2003年(平成15年)12月の日本テトラパック山路元会長の急死が背中を押したということかも知れない。
1927年生まれ東京大学理学部物理学科卒業。工学博士(ズームレンズの光学設計に関する研究)。 1951年にキヤノンカメラ株式会社(現キヤノン)に入社。中央研究所副所長、事務機事業本部長などを務めた後、1989年に代表取締役社長に就任。1993年1月米国の経営誌ビジネスウィークの注目される経営者を選ぶ企画でベストマネージャーの一人に選ばれた。1995年に日本テトラパック株式会社取締役会長に就任。2003年死去
というわけで日本テトラパック退職後も規程がらみのお手伝いはさせて頂いたが、2005年(平成17年)5月の通常総会後の懇親会で当時の臼井会長理事から過分の表彰状を頂いて、私と協会と関わりは終止符を打った。この時点ではそれから約2年後の2008年(平成20年)に再度協会との関わりが再開することになろうとは考えもしていなかった。