顧問 青島 靖次

協会設立のころ -1-

戦後、日本経済が成長し近代化する三十年代、食文化の変化とともに、健康ブームも手伝い、牛乳市場は日配を中心に急速に成長した。昭和三十三年、市場の要請を受け、牛乳キャップについて、衛生面、標示※面を含めた規格化の機運が高まり、同年九月二十五日、食糧タイムズ主催の牛乳衛生懇談会が日比谷松本楼で開催された。この会には厚生省及び東京都の担当課長と全国の牛乳キャップ業者、牛乳瓶業者が参加し、牛乳包装の衛生に関して説明と懇談が為された。この席で、出席した牛乳キャップ業者から業界団体結成について意見が出され、九月二十八日には(資)尚山堂、東洋キャップ(株)、扶桑紙器(株)、(株)紙冠商会、弘野牛乳用品(株)、日本紙器(株)により業界団体結成についての発起人会を開催し協会の名称は日本牛乳キャップ協会と決まり、発起人代表には(資)尚山堂の浅野武矩氏(故人)が選任された。昭和三四年三月二十日、新橋第一ホテルにおいて、任意団体である日本牛乳キャップ協会の設立総会が開催された。会員二十一社、賛助会員二十七社、来賓には厚生省、東京都庁、大阪府庁を始め、乳業界から多数の参席を見て協会としての序を示した。協会初代会長には尚山堂の浅野武矩氏が就任した。 初年度は理事会を中心に協会の組織化、牛乳キャップ製造の衛生問題、特殊キャップに関する使用可否の基準設定、厚生省通達に関する説明会開催等を主要事業とした。会員は同業界の域をでず、手探り状態での出発だった。

昭和三十五年五月二十五日、東京丸の内の新東京グリルにおいて、第二回定期総会が開催された。このころから協会をより公共性の高いものにするべく、社団法人化に向けた動きが活発になり、昭和三十五年度は法人化に関する企画立案など諸準備に追われた一年であった。その間にはお風呂屋さんの湯上りの定番であった「フルーツ牛乳」の課税に関する標示変更や、乳酸菌飲料、はっ酵乳の標示変更問題など、会員に周知徹底することが多発する一年でもあった。

明けて昭和三十六年、社団法人日本牛乳キャップ協会設立準備のため、定款、設立諸書類などの原案が理事会で審議、検討された。四月十九日には新橋第一ホテルにおいて第三回定期総会を開催。任意団体日本牛乳キャップ協会を解散、社団法人日本牛乳キャップ協会発足の定款を承認、理事、監事の選任を経て、初代理事長には浅野武矩氏が就任した。六月十日には公益法人設立許可申請書が厚生大臣に提出された。当時は事務所所在地である東京都知事を経由する申請制度であった。十一月二十七日、厚生大臣より社団法人日本牛乳キャップ協会設立許可書が送達され、十二月四日登記が完了した。以後同日を協会設立日としている。このように公益法人としてスタートした社団法人日本牛乳キャップ協会が、社団法人全国乳栓容器協会を経て、今日の社団法人日本乳容器 ・機器協会に継続することになったわけである。

※「標示」は現在では「表示」と標記されますが当時は「標示」を用いていました。 昭和四十八年三月三十一日乳及び乳製品の成分規格等に関する省令の一部を改正する省令に 「乳及び乳製品の成分規格等に関する省令(昭和二十六年厚生省令五十二号)の一部を次のように改正する。第一条中「標示」を「表示」に改める。」と明記されています。

協会設立のころ -2-

日本牛乳キャップ協会が発足した当時、主流だった牛乳キャップの丸栓の規格はヨーグルト用が四十二・五mm、牛乳用が三十四・一mm、乳酸菌飲料用が二十三・四mmであった。先人たちが〇・一桁までの基準にしたのは、その精度を出すためであったと聞いている。

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昭和三十年代、急速に成長した牛乳瓶装の紙キャップについて、消費者や乳業メーカーからキリを使ったり、ツメでこじあけたりしなくても、簡単に取れるキャップはできないかという要望が多く寄せられるようになった。会員は様々な特殊型の牛乳キャップを考案し、協会に対しその使用可否を問い合わせるようになってきた。そこで協会内に各指導官庁の指導のもと、「特殊型牛乳キャップ」の審議会を設置して対応を審議し、使用の可否を決定することになった。
特殊型牛乳キャップには多種多様なものがあったが、主要なものは以下の通りである。

1. 耳付きキャップ…現在も使用されているが、東京都と大阪府では不可。
2. 裏切れキャップ…当時は多用されたが、現在は使用されていない。
3. 針金つきキャップ…当時数社で使用されたが長続きしなかった。
4. 爪付きキャップ(針金なし)…当時数社で使用されたが長続きしなかった。
5. 平紐付きキャップ(プルキャップ)…使用されなかった。
6. 帯付きキャップ(プルキャップ)…当時数社で使用されたが長続きしなかった。
7. 花形キャップ…使用不可


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以上のように様々なキャップが考案されたが、乳業メーカーにとっては打栓機の改良が必要であったり、生産能力が低下するなどの問題があった。また、厚生省も衛生上の見地から「あけにくい方がよい」という考え方で、昭和三十五年九月二十日の朝日新聞には、「紙質がだんだんよくなってきたので、昭和九年※からいまのような紙ブタが許可されているが、本当は昔のような王冠(ビールビン式)でないと、衛生上十分とはいえない。まして“つまみ”その他のついた新形式のものは、好ましくない」という当時の乳肉衛生課の談話が紹介されている。
このように牛乳キャップの丸栓という特徴に勝る開発ができず、唯一耳付きキャップが現在も使用されている。

※警視庁令第七号(省令改正によるもの)昭和九年五月一日牛乳営業取締施行
細則 第二章 牛乳搾取営業第三十二条
四 牛乳ヲ配布スル容器ノ密閉栓ニハ滅菌シタル王冠又ハ紙製密閉栓ヲ使用スルコト
五 紙製密閉栓ヲ使用スルトキハ包装紙ヲ以ッテ被覆スルコト

協会設立のころ -3-

昭和三十年代、各家庭にお風呂があまり普及していなかった頃、庶民のいこいの場所であった銭湯で、湯上りの定番といえば「フルーツ牛乳」だった。この「フルーツ牛乳」に課税するという問題がおきた。
当時、果実水は物品税の課税対象だったが、牛乳類については非課税だった。そこで「フルーツ牛乳」の成分が問題になった。昭和三十五年九月二十八日、国税庁長官より「フルーツ牛乳と称する物品に対する物品税の取扱について」という通達が出され、牛乳成分標示をする事になった。その内容は、

1. 乳及び乳製品の成分規格等に関する省令(昭和26年厚生省令第52号)第2条第23項に規定する乳飲料に該当するフルーツ牛乳のうち、牛乳または乳製品の使用割合が全容量の60パーセント以上のもので、そのまま飲用に供されるものは、果実水又はこれに類するものとして取り扱わないこと。(注)乳飲料に該当するフルーツ牛乳とは、牛乳又は乳製品を主要原料とし、これに果汁の搾汁または果実エッセンス類などを加えて製造した飲料<中略>で、各種防腐剤を使用しないものをいう。
2. 一の牛乳または乳製品の使用割合は、乳及び乳製品の成分規格等に関する省令別表二の(六)に規定する試験法によって算定した無脂乳固形分8パーセントとした場合の牛乳の割合によること。(注)<略>
3. この取り扱いによって果実水又はこれに類するものに該当するものに対しては、昭和35年10月1日以降製造場から移出するものについて課税の取り扱いをすること。

というものだった。その結果牛乳または乳製品の使用割合が六十パーセント未満のものは改版をする必要が生じた。事前に情報は得ていたものの、九月二十八日の通達から十月一日の実施まで時間がなかった。十月一日までに間に合わない時の処置について各指導官庁と協議が行われ、間に合わない場合は当該保健所を通じて県庁に連絡し旧キャップの使用を許可してもらうようにとの了承が得られた。


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ちなみに、このときの処置は嗜好飲料としてではなく、果汁に対しての課税であったため、コーヒー牛乳は対象とならなかった。いずれにせよ任意団体日本牛乳キャップ協会として重大な仕事になったことを記憶している。

協会設立のころ -4-

さて、協会設立時に戻ると、協会設立に関与した人々は多数いるが、特にスタート当時の役員の方々が目に浮かぶ。 協会設立のきっかけを作ったのは食糧タイムズ社の故山本門重社長である。当時食糧タイムズは乳業関連業界紙の代表的役割をしていた。山本社長は業界紙の立場から、常に乳業界と、乳業界に関連する資材メーカーの各社長と懇意にしていたが、物静かな誠実な方であったと記憶している。山本社長であればこそ、同紙が主催した「牛乳キャップ、牛乳壜業者の集い」に業界の大半の社長や役員クラスが参集し、その主旨に賛同して、協会発足の足掛かりが出来得たものと思われる。

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初期の総会風景

当時のキャップ業界の各社長はオーナー経営者が大半を占めていたので、決断も早く、直ちに協会設立へと話が進んだのである。当時の経営者たち浅野武矩(尚山堂・故人)、弘野長三郎(弘野牛乳用品・故人)、両角慶一(紙冠商会・故人)、山下虎雄(山下正光堂紙器印刷工場・故人)、清水保美(清水製作所・故人)などの方々は、太平洋戦争中の物価統制の頃から旧知の間柄であった。また苦しい時代を経て牛乳キャップが全盛となり、一代を築いた強者揃いだった。後に牛乳キャップ協会が設立され、総会や新年会を開催するに当たって、東西の経営者たちの息の掛かった場所を順次回るなど事務局は大変苦労をした。


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故稲葉幸一氏(左)と故弘野長三郎氏(右)

この習慣は近年まで続いた。当協会の総会開催地に長らく各地の温泉地が選定されてきた訳である。会員や賛助会員は総会が楽しみで、その出席率は良かった。地方の会員は、時には奥様同伴で出席されることもあった。当協会はスタートした当時、中小企業の集団であったが一糸乱れずに今日まで継続できたのもこんなことが寄与しているのかもしれない。
その後、当協会を設立するにあたって、さらに全国に散在しているキャップメーカーから発起人を募った結果、高橋栄一郎(扶桑紙器)、小林英雄(東洋キャップ・故人)、押鐘正己(日本紙器工業)、稲葉幸一(三陽紙器・故人)等の多彩な方々が参加することになった。小林氏は後に当協会の「紙ふたの自主基準」を作成するに当たって非常に才を発揮された。理論家でかつ粋人であったと記憶している。
また、稲葉氏は常に仕事本位で、仕事を愛し、事業発展のためには時の関係官庁の担当官に苦言を呈しに行くなど行動的な方だった。後に当協会の副理事長として厚生大臣表彰に輝いている。

協会設立のころ -5-

さて、協会法人化にあたり、先ず協会運営について、資金面の調達をどうするかが課題となった。

はじめに一般の会社の資本金にあたる基本金だが、公益法人では寄付金で処理することが通例となっており、当時の会員二十二社、賛助会員二十七社から寄付を募ることになった。

会員は一口五千円で二口以上の一万円から五万円の範囲で、賛助会員は一口五千円以上で五千円から五万円の範囲で寄付を願ったところ、八十三万円が集まった。これを基本金として協会の設立が申請され、今日なおこれが当協会の基本金として登記されている。

一方協会の運営の基本となる会費については、種々意見が出て、再三にわたり審議した結果、1.維持会費、2.特別会費の二本立てとすることになった。維持会費は会員、賛助会員一律に年額三千円と定めた。それだけでは到底不足するので知恵を絞った結果が特別会費である。

当時牛乳栓用紙は、本州製紙、大昭和製紙、天間製紙の三社で抄造されており、総生産高は月あたり七百トンと推定されていた。会員各社はいずれもこの三社から用紙を購買していたので、用紙メーカー三社を牛乳栓用紙指定工場とした。会員が一トンあたり百円を加えて用紙を購入し、この金額を製紙会社三社から特別会費(分担金)として納入してもらうことにした。

これは会員の用紙使用量に比例して会費収入が公平に保たれる妙案であり、会員からも異議無く採用された。これで協会法人化に必要な収入が確保されることになり、初年度百万円の予算計画が確立された。この特別会費徴収制度は昭和三十六年度から四十七年度まで十二年間採用された。昭和四十八年度からの月額会費は正会員一律五千円、賛助会員一律千五百円に改定された。その後会費は幾多の変遷を経て今日にいたっている。

協会設立のころ -6-

牛乳には印刷が出来ないので、容器がそれに変わって表示の責を負うというのが浅野勉前会長の口癖だった。牛乳のフタや容器の大事な機能の一つである表示について、少しまとめてみようと思う。


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機械口の牛乳ビン

明治十八年十一月、警視庁は「牛乳営業取締規則」を公布して牛乳の搾取や販売を認可制とし、牛乳配達人には標札の携帯を義務付けた。当時は牛乳を缶からヒシャクで汲んで配っていたので表示の必要はなかったが、やがて牛乳が容器で配られるようになると表示の問題がおきてきた。明治二十四年に「牛乳営業取締規則」を改正し、容器に「純乳」「脱脂乳」の種類別を表示するよう義務付けたのがはじまりだという。明治三十三年には種類別が「全乳」と「脱脂乳」に変更され、昭和二年には 「低温殺菌または高温殺菌 」の表示が義務付けられた。また、王冠栓で小売販売するものにはビン詰め日の記載も義務付けられた。昭和八年には種類別に「特別牛乳」加わり、表示事項は 「種類別 」「営業者の氏名又は商号」「配布の月日または曜日」「低温殺菌・高温殺菌の別」が加えられるようになった。昭和九年には牛乳を配布する容器の密閉栓には滅菌した王冠栓または紙製密閉栓を使用することが定められ、紙栓(牛乳キャップ)に表示が印刷されるようになる。


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瓶の底の全乳180c.c.の表示

これらの牛乳に関する規制は、はじめ警視庁や、各府県の営業取締規則(独立命令)によっていたが、後に所管は内務省を経て昭和十三年に創設された厚生省に移り、今日の厚生労働省に到るわけである。さらに、昭和四十三年に飲用乳の表示に関する公正規約が告示され、全国飲用牛乳公正取引協議会が設立された。以後、乳等には乳等省令と、公正規約を加味した表示が義務付けられることになる。

協会が発足する昭和三十年代は戦後が終わり、日本経済が成長し、近代化するとともに、食文化も大きく変革していく時代だった。折からの健康ブームで牛乳市場は日配を中心に急成長するが、牛乳の衛生面、表示面の規格化が進められるようになった。この頃、明治三十三年から表示されてきた「種類別」や日配を中心としてきた「販売曜日」制度についても検討が加えられるようになった。昭和三十三年には還元乳が 「加工乳 」、市乳が「牛乳」に変更されている。

当時牛乳キャップの製版には、先ずラフ画(カラースケッチ)を得意先に提出し、校正ののち版下を作成し、製版業者に依頼して亜鉛凸版を製版するという手順だった。全て手書きの作業のため版下作成から製版までは一日十版程度が最高だった 。