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思い出すまま −番外編−

日本紙パック株式会社 椿山 佳明

日本乳容器・機器協会誕生の経緯 その1

平成十七年四月一日、社団法人全国乳栓容器協会と社団法人日本乳機器協会が統合して社団法人日本乳容器・機器協会が設立した。七年たって、当時を知る人たちが年々退職してゆくので、のちの覚えに設立の経緯を記すように、という事務局のお申し出があった。私は当時事務局長として、同僚の江刺家敏君とともに新協会設立の実務を担当した。だいぶ記憶の薄れた部分もあるが、ハードディスクから古いファイルを引き出して、当時のことを書き残そうと思う。その前に、少しくどくなるが御寛恕をいただいて、統合に先立つ三年ほど前の話から始めたい。

写真 平成十四年、私は日本製紙ピュアパック事業本部の営業部長代理だった。ところがこの年、ピュアパック事業本部は関係会社の十條セントラルと統合し、十月に日本紙パックが設立されることになった。同時に私は営業部長代理から新設の営業管理部長になり、転出する土田ピュアパック業務部長の業務の一部を引き継ぐことになった。ちなみに私は酒、カラオケ、麻雀など社交的なことが大の苦手で、就中ゴルフは超人的にヘッポコだったので、温情ある上司の英断で営業の第一線からはずされたらしい。組織改編は八月頃には内定していたので、土田部長の担当していた全国乳栓容器協会や印刷工業会関連の業務はその頃から引継ぎを進めていった。

当時の全国乳栓容器協会の首脳陣は浅野勉会長(尚山堂)、柚木善清副会長(日本テトラパック)、羽田昭彦副会長(日本製紙)、稲葉弘文副会長(三陽パックス)、青島靖次事務局長(尚山堂、現顧問)という布陣だった。羽田副会長は十月の異動で関係会社に転出したので、翌年の総会まで在籍し、その後は臼井征之副会長(日本紙パック)に引き継がれることになる。全国乳栓容器協会会長は、前身の日本牛乳キャップ協会以来浅野武矩会長、浅野勉会長と尚山堂トップが二代四十年余りを勤められており、万世一系、会長は尚山堂トップと、当時は誰もが信じて疑わなかった。ところが、その頃浅野勉会長は年齢や健康上の問題で内々辞意を固められていた。会長の意を酌んだ青島事務局長は、西園寺公の秘書原田熊雄男爵のごとく、密かに次期会長工作を開始しているところだった。

一方、当時協会は公益法人の新指導基準に従って、定款の変更や、外部理事の選任など組織の近代化を進めているさなかで、事務局を補佐するために法人整備委員会が組織されていた。法人整備委員会とはわかりにくい名称だが、協会を公益法人として望ましい姿に整備するための委員会、というくらいの意味で、今の事業企画小委員会につながっている。委員は青島事務局長と副会長会社の担当者三人で構成されていた。星屋良浩委員(三陽パックス)が従来からのメンバーで、八月から私と、福田利夫委員(日本テトラパック、現事務局長)が加わることになった。福田委員は私と同様に前任の田中義敏委員が退職することに伴う就任だった。法人整備委員長はそれまで土田事務局長が勤めていたので、訳もわからぬまま私が後任に据えられた。これが以後長く続く青島事務局長の謀略の第一歩だったとは、当時の私は知る由もない。

名目法人整備委員長の私は、のっけから浅野会長の後継会長、協会事務所及び事務局の独立、会費問題など、今につながる協会の様々な課題に直面することになってしまった。その中の最大の課題が、社団法人日本乳機器協会との統合問題だった。とはいえ、私は青島事務局長の傀儡にすぎず、会長問題も、事務所問題も、協会統合問題も、今にして思えば全て青島事務局長の掌の中にあり、私はその中で走り回る孫悟空に過ぎなかった。(少し表現をオーバーにしていますが、実感なのです)

平成十四年十月九日、十四年度の第三回法人整備委員会が開催された。この席上、青島事務局長から「浅野会長は十五年度一杯の任期で辞任する意向だ」と告げられた。のちに薄々知ったところでは、この時点で浅野会長は既に柚木副会長に次期会長を打診していたが、柚木副会長はそれを固辞されていたということだ。柚木副会長が会長就任を辞退されたので、青島事務局長は、口では「三陽パックスの稲葉前社長がありせば、会長就任をお願いしたいところなのですが」などと言いながら、矛先をはっきりと日本紙パックの臼井社長に向けてきていた。知らないのは臼井社長と私だった。

第五回法人整備委員会が平成十五年一月二十一日に開催された。ここで初めて社団法人日本乳機器協会との統合の話が浮上する。
社団法人日本乳機器協会は昭和三十九年一月に設立された。設立の目的は「乳機器の食品衛生に与える影響の重要性に鑑み、乳業に使用する機械器具の改良発達と牛乳、乳製品に関する処理加工の衛生技術の向上を図ることにより、国民の保健衛生に寄与する」とされている。
事業内容は@乳機器に関する衛生的技術並びに一般業務上の改善に関する研究指導。A乳業に使用する機械器具の性能並びに衛生規格の委託審査、B国内、国外の情報蒐集、その他だった。
正会員は岩井機械工業株式会社、植田酪農機構業株式会社、三丸機械工業株式会社、四国化工機株式会社、深尾精機株式会社、株式会社イズミフードマシナリ、ヤスダファインテ株式会社の七社だった。当時の会長は四国化工機の植田和雄相談役で、副会長が岩井機械工業の米田三早夫会長、難波江専務理事、石井信雄事務局長(四国化工機)だった。

難波専務は当時全国はっ酵乳乳酸菌飲料協会の専務理事で、全国乳栓容器協会の特別顧問も兼務されていた。その難波専務から青島事務局長に両協会の統合について打診があったというのだ。当時、先に触れた新指導基準によって公益法人の見直しが進められており、乱立した同業法人は同業組合などに整理され、公益法人は縮小される方向にあった。日本乳機器協会は全国乳栓容器協会以上に会員数も少なく、具体的な事業を行うことが難しい環境にあった。
以前も引用したことがあるが高名なノンフィクション作家佐野眞一の「業界紙諸君!」という本がある。その中の一節。
「業界紙が、業界というものを前提として成立していることはいうまでもない。その前提となる各種業界を調べてみて、この世界の広大無辺なことに思わず息をのまされた。
日本マッシュポテト協会、全国するめ加工業協同組合、日本かつら工業組合あたりまではなんとか理解できる。だが、日本モップ工業組合、全国剥製師協会、東京都座敷箒商工業組合、全国乳栓容器協会(牛乳瓶キャップ業界)となると、驚きを通り越して感動すら覚える。人間営為のいとおしさにふれ、しばし胸うたれるのである。」(傍点椿山)
佐野眞一の胸をうったちっぽけさでは筋金入りの全国乳栓容器協会も、会員七社の日本乳機器協会の前では脱帽せざるを得なかった。このちっぽけな協会同士を統合させる話の発端は、おそらく両協会の主務官庁である厚生労働省にあったと思う。

しかしながら協会の統合にはいくつかの課題も存在していた。すなわちいくらちっぽけとはいえ社団法人同士の合併は制度上許されていない。ではいったん両者を解散して、それから新に公益法人を設立するかというと、公益法人を整理しようとしている御時世で、新たな法人の認可はおいそれとは下りない。しかも社団法人の解散には財産処理を大臣に申請しなければならないなど煩瑣な手続きが必要になる。
したがって考えられたのが、両者の立場が対等であることを前提に、全国乳栓容器協会は定款を変更して、乳機器分野を包含する新協会となる。日本乳機器協会はいったん解散した上、会員が新協会に入会し、乳機器協会の財産は新協会に全額寄付するという方法だった。この筋書きに沿って、日本乳機器協会からは「社団法人全国乳容器機器協会(仮称)設立趣意書(素案)」が提示された。

三月十一日になると第六回整備委員会が開催された。乳機器協会統合による当会のメリット、乳機器協会側の真意、肌合いの違う業種の統合による問題点などが論議された。その結果、先方の石井事務局長と親しい私が、乳機器協会内の検討状況を確認すること、青島事務局長からは難波専務を通じて厚生労働省の意向を確認すること、などが話し合われた。その結果、石井事務局長からは難波専務を通じて伺っていた内容の確証を得、また、「乳機器と容器包装の団体は一体化することが衛生面、安全面からみて望ましく、公益法人の見直しの中、本件は有意義」という厚生労働省の意向も判った。

平成十五年五月九日全国乳栓容器協会の第四十二回総会が開催された。この総会で羽田昭彦副会長が正式に退任し、臼井征之(日本紙パック)副会長が就任した。浅野会長の最後の年度がスタートした。日本乳機器協会との統合問題に関する整備委員会の検討は、この総会に先立って事業企画運営委員会や理事会で報告、論議されていたが、あらためてこの総会で統合を前向きに検討することが承認された。

総会の決定を受けて平成十五年七月から、八月、九月と毎月一回のペースで両協会の統合協議の検討会が行われた。詳細の記憶は大分が薄れたが、乳栓容器協会側は整備委員会メンバー、乳機器協会側は難波専務、米田副会長(もしくは代理で岩井機械工業の網倉取締役)、石井事務局長が中心だったと思う。新協会における「乳機器」の範囲、定款の変更点、協会名称などが論議された。九月の第三回検討会では乳栓容器協会は乳機器の範囲を、それまでは乳栓容器に関係する乳機器としていたものを、乳機器協会希望の通り全ての乳機器に譲歩し、前提として、乳機器協会会員が原則全社入会。新たな協会の中で積極的な事業を行うことをもとめた。ところが十月十九日の第四回検討会に至り、乳機器協会からは一転して統合問題の白紙撤回が打ち出された。理由は、統合した後に乳機器部会として十分な事業を行っていく自信がない。また、その結果として統合された協会から退会することになれば、定款変更まで行ってくれた乳栓容器協会側に対し申し訳が立たないというものだった。今にして思えば、これまでの協議ではお互いに腹の探りあいのようなところがあり、ちょっとした言葉の行き違いから、双方が過剰に反応して不愉快な思いをすることもいくつかあった。そのために一年ほど回り道をしなければならなくなった。

日本乳機器協会との統合はお預けとなったが、全国乳栓容器協会の会長問題はますます時間が迫ってきた。十五年の第五回整備委員会は十二月十日に、初めて尚山堂で開催された。それまではだいたい飯田橋の日本紙パックの会議室を使っていた。三陽パックスの星谷委員は委員会のつど富士市の会社から東京に出て来て下さった。この日は、尚山堂内の協会事務所を拝見し、通常の委員会を開催した後、委員四人で町田駅に出た。星谷委員は確かご子息のお住まいに泊まるということで、委員四人で近くの豆腐料理店に入り、豆腐と金魚(青島事務局長お得意の焼酎水割り。鷹の爪、大葉入り。お湯割りだと熱帯魚もという)でささやかな忘年会を持った。その二週間後、日本テトラパックの山路敬三会長が急逝された。福田委員は仕事上山路会長のお側にいたので、さぞかし大変だったろうと思う。柚木副会長の協会会長就任がさらに遠のいたように思った。

日本紙パックの臼井社長はもともと十條製紙の技術・研究畑出身で、十條セントラルの専務取締役に就任するまでは乳業界や容器業界にはほとんど縁がなかった。全国乳栓容器協会の会長問題で、当初臼井社長は「何が何でも柚木さんにお願いしなさい」という一点張りだった。私は何事につけねちこい青島事務局長と、岩盤のごとき臼井社長の間にはさまって実に進退窮まった。しかし当時の日本紙パック前田利洋専務(後社長、協会第四代会長)の説得や、様々な経緯があり、最終的には臼井社長は会長就任を受諾することになる。臼井社長の岩盤も、老獪でねちこい青島事務局長の前にはもろくも崩れ去ったことになる。ちなみに「ねちこい」というのは当時尚山堂社長だった阪井政光社長が青島事務局長に与えた評語で、私が言い出したものではない。私は阪井社長が、「青さんのゴルフはパターもねちこいが、ドライバーはもっとねちこい」と関西風のアクセントでおっしゃるのを何回か聞いたことがある。
(次号へ続く)

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