細野 明義

飛鳥時代~安土・桃山時代

1.日本における家畜牛の誕生

古代日本の牛乳利用を語るには、まず古代日本の牛について説明する必要がある。考古学的には日本における牛の存在は数万年前の旧石器時代まで遡ることが出来る。岩手県一関市の金流川(きんりゅうがわ)流域で発見された出土品の中に多量の牛骨化石が含まれており、これらは野牛や原牛の骨であるとされている。しかし、これらの化石牛は日本列島が南北で大陸と陸続きであった洪積世末期に相当することから古代日本で役用や食用に供された家畜牛とは同一の種類は考えられていない。日本における家畜牛の誕生は、縄文中期以降の遺跡から発見される骨こそが家畜牛のものであると推定されており、今日における和牛の祖牛と云われている。しかし、縄文中期以降に飼育されていた和牛はもっぱら労役用、肉用であり、乳そのものを飲用に供することはなかったようである。8世紀に編纂された「古事記」や「日本書紀」には牛や馬にまつわる話が随所に記されている。記紀では神代と現実社会の区切りが必ずしも明確ではなく推定の域を脱し得ないが、日本では牛馬が古代から飼育されていたにもかかわらず乳飲用についての記述は見当たらない。

2.渡来人が伝えた乳利用技術

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938年、源順(みなもとの したごう)が編纂した「和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)」には6世紀の半ばに、大伴狭手彦(おおとものさでひこ)が朝鮮から連れてきた中国人、善那が第36代孝徳天皇(645-650)にミルクを献上し、和薬使主(やまとのくすしのおみ)の姓を賜ったことが記されている。この時期は大化の改新のあった頃であり、以後の飛鳥、奈良、平安時代にかけて乳牛院(宮廷内の乳牛飼育舎)や乳の戸(宮中御用の指定酪農家)が設置されるとともに、牛乳からつくった「蘇」を奉納する制度「貢蘇の儀」と延喜式制度(諸国輪番制の貢蘇制度)が確立された。また、同天皇の御代に和薬使主福常が搾乳術を習って乳長上という世襲職を与えられた旨のことも上記の「和名類聚抄」には記されている。927年に藤原時平が著した「延喜式(えんぎしき)」には「蘇」は牛乳大一斗(今の約7.2L)を加熱し、これを大1升(約720ml)、つまり10分の1に濃縮したもので、陶製の壷や木製の籠につめて宮中に奉納したと記されている。「蘇」は今日の発酵クリームまたはクリームに近いもので、牛乳を熱濃縮したものであることから長距離の輸送にも適していた。蘇の他に当時の乳製品として「酪」、「乾酪」、「酥」、「醍醐」などがある(図―1)。「酪」は今日の発酵乳、「乾酪」はチーズ、「酥」は加熱により生じる乳皮を煮詰めたもの、「醍醐」は「酥」を更に煮詰めたバター様乳製品で、衆病皆除の効がある乳のエキスとして尊ばれた。

3.乳は仙人酒?

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上述した雅な乳製品の製造も朝廷の衰えに伴い徐々に廃れ、平安末期には「貢蘇の儀」も姿を消し、江戸時代の中期まで乳製品についての記載が見当らなくなる。しかし、善那が乳利用技術を伝えたことは我国における乳文化の幕開けであったことには論を俟たないが、江戸時代の中期になって再び乳文化が華を開く上で重要な役割を果たしたのが中国から「斉民要術(さいみんようじゅつ)」と「本草綱目(ほんぞうこうもく)」の二大農書が日本に伝搬したことによる。「斉民要術」は536年頃、北魏の賈思字(かしきょう)によって撰述された総合的農書であり、中国に現存する最古で最も完全な本草書で、92編、全10巻から成っている。前出の善那使主の父祖一族が日本に持参したとも云われ、「酪」や「酥」の製法が詳しく記載されている。
一方、「本草綱目」は明朝の李時珍(りじちん)によって撰述され1596年に完成した中国の本草学史上においてもっとも充実した農書で全52巻から成っている。初版本は金陵本と呼ばれ、金陵本が刊行されて間もなく日本にも伝搬されている。現在、完全な形で残っている金陵本は世界で7組しか存在していないが、そのうち4組が日本の図書館に所蔵されている。牛乳、乳製品についての記述も詳しく記されている。乳の正体についての記載が面白く、筆者の現代訳では概ね次のようになる。「乳汁は陰血の変化したもので、脾、胃に生じ、受胎せぬうちは下って月経となるが、受胎すると留まって胎児の栄養となり、出産すれば赤が白に変じて乳汁となる」という内容である。つまり、乳汁は本来は赤で、それが白に変わった「化の信」、つまり「化け物」であり、古代中国人は乳汁が化け物であることの本質を隠して「仙人酒」と呼んでいる。なんとも才気煥発的な発想である。さらに、牛乳の効用について記した部分の抜粋を図-2に示した。概ね次のような内容になっている。「味は微かに甘く、飲むと体温を下げるが、毒はない。発汗を抑え、喉の渇きを止める。心肺を養い熱毒を解し、皮膚を潤す。悪寒や熱気を除く。ニンニクと和えて煎沸して飲むと肩こりが治る。解熱にも効果がある。老人は乳を沸かして飲むのがよい。ショウガを入れた乳を小児に与えると吐乳するこがなくなる。しゃっくりを止める効果がある。慢性の身体の痛みを治し、大腸に潤を与え、軟便を改善する。黄疸を除き、老人にとって乳粥は甚だよい」。今日の科学では理解できない部分も多々あるが、これが当時の日本人による乳に関する記載との出会いであった。

江戸時代

1.徳川幕府による鎖国政策と長崎出島のオランダ人の食事

慶長8年(1603)に徳川家康が征夷大将軍に任ぜられ江戸に幕府が開かれた。徳川幕府は幕府以外の諸藩が貿易により力を付けることを嫌い、明、オランダ、ポルトガルとのみ貿易を行ったが、キリスト教の勢力拡大を阻止することの他に戦国時代の終焉により職を失った多くの浪人や女性を含む藩民が傭兵もしくは奴隷として海外に売られたことや、海外から来る船が伝染病を持ち込むケースが多かったため1636年に長崎に築造した出島を貿易の拠点とする鎖国政策を採った。しかし、1637年に島原の乱が勃発したことを契機に幕府はポルトガル人を国外追放して明とオランダとのみ貿易をすることになった。ポルトガル人を追放した後、オランダ東インド会社の商館が出島に移され、オランダ人が居住することになった。出島に居住させられたオランダ人は武装と宗教活動が規制され、歴代のカピタンは、江戸参府が義務付けられていた。享保9年(1724)、当時のカピタンであったヨハノス・テイデンスが参府したとき、幕府要人にオランダ人の飲食について説明した様子をその時の大通詞であった今村市兵衛英生が「和蘭問答」に詳細に筆録している。その中に、オランダ人が通常の食事にパンにバターを塗って食べる様子が記されている。「・・・食は汁椀にかろく一盛の食残り申候。ハム(パンのこと)を一つ給べ申候。これにボウトル(バターのこと)をぬり申候。二つ給べ申候は大食のよし申候。ハムと申候物は麦の餅にて候由・・・」。
ともかく鎖国によって閉ざされた日本人にとって、出島は唯一西洋に開かれた窓であり、当時の日本人の強い関心を惹いたものの一つにオランダ人の食生活があり、その中に乳製品や肉製品があった。

2.徳川幕府前半・中期に刊行された食物誌に記されている牛乳、乳製品

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徳川幕府前半・中期において出島のオランダ人がもたらした西洋型の乳製品は上記のとおりであるが、この時期国内ではいくつかの食物誌が刊行されており、それらの中に乳や乳製品について紹介したものがある。代表的な食物誌として名古屋玄醫著「食物本草」(1671)、人見必大著「本草食鑑」(1697)、寺島良安著「倭漢三才圖会」(1713)がある。いずれも李時珍が1596年に刊行した「本草綱目」を底本にしている。因みに我国最初の百科事典と称されている「倭漢三才圖会」の「酪」の部分では、「酪和迩宇能可遊本綱水牛秦牛字牛羊馬駝之乳皆可作之・・・」(図-1)で始まっており、現代語に概訳すると「発酵乳は乳の粥である。本草綱目によると水牛、秦牛、字牛、さらには羊や馬駝の乳のいずれでも造ることができる。・・・」となっている。

3.吉宗による禁書の令の緩和と美作学派(蘭学)の台頭

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享保年間(1716-1735)、8代将軍徳川吉宗は実学を奨励してキリスト教関係以外の洋書を解禁した。出島からもたらされる書物は、我国の医学、天文暦学などの研究を促進させたことは云うまでもない。また、吉宗は安房嶺岡牧場を開き、白牛を飼育させバターを造らせている。さらに青木昆陽に命じて長崎でオランダ語を学ばせ、昆陽は「和蘭文字略考」や「和蘭話訳」などのオランダ語の手引書を著しつつ洋学(蘭学)の道を拓き、後に前野良沢、杉田玄白、大槻玄沢といった傑出した洋学者が生まれる素地をつくった。美作国(岡山県)津山藩の藩医であった宇田川玄隋もその一人であり、津山藩の洋学勃興(美作学派)の基礎を築いた。玄隋の養子が玄真(榛斎)で、玄真の養子が榕庵であるが、三人とも優れた洋学者、科学者となって、この時代の新しい学術の道を拓いた。玄真は我国に初めて内科学を興したことでも知られている。玄真はオランダ語で書かれた書物の翻訳にも力を注ぎ、文政5年(1822)には「遠西醫方名物考」(図-2)を訳出している。この翻訳書にはチーズの造り方が紹介されている。筆者が知る限り、西洋型チーズの製法について記したものではこの「遠西醫方名物考」が日本で最初のものであると思われる。その冒頭部分を紹介すると「乾酪(カーズ)、是ハ通例牛乳或ハ羊乳ニテ造ル。二種アリ、一ハ酥ヲ去ラズニ造リ、一ハ酥ヲ去リ製ス。然トモ多ク酪餘ヲ以テ製ス。・・・」で始まっている。
なお、吉宗が白牛を飼育させバターを造らせた頃、水戸藩九代藩主、徳川斉昭は1863年に弘道館の傍らに養牛場を設け、藩校の医師達に牛酪を造らせている。

4.開国の胎動

前述した嶺岡牧場は十一代将軍家斉の時代に入って益々充実し、家斉は白牛酪を造らせ、侍医である桃井源寅(もものいのみなもとのいん)に命じて我国最初の牛乳・乳製品についての単行本である「白牛酪考」を書かせている。白牛酪は今日でいう練乳様乳製品で、その書き出しは「本艸綱目恭曰牛羊水牛馬乳並可作酪水牛乳作者濃厚味勝秦牛馬乳作酪性冷驢乳尤冷不堪作酪也藏器曰酪有乾湿乾酪更強時珍曰潼北人多造之水牛秦牛字牛羊馬驢之乳皆可作之也」で始まっている。これに続く文章を現代語に概訳すると「腎虚や労症、労咳をはじめ産後の衰弱や各種の栄養不足状態を恢復せしめ、さらに大便の閉結、老衰からくる色々な症状を駆逐する」といった内容が記されており、白牛酪の効用について紹介している。
一方、嘉永6年(1853)にはアメリカからペリーが来航した。来航にともない日米和親条約の批准のために新見正興(正使)村垣憲正(副使)、小栗忠順(観察)、森田清行(勘定方)ら77人がアメリカに渡っている。その間彼らがアメリカでバターやアイスクリームといった乳製品に出会っており森田清行は「亜行日記」にアイスクリームについて「氷製ノ菓子ハ氷ヲ打砕キ臼ニテ搗キ色ヲ染ムル由、形状婦人ノ姿又宝袋又者日本ノ薄皮モチノ如ク丸ク拵ヘ、猶氷中ニ入レ暫時ニ堅メ製スル由、・・・」と記し、また同行の柳川當晴も「渡航日記」の中で「又珍しきものあり。氷を色々に染め、物の形を作り、是を出す。味は至って甘く、口中に入るに忽ち溶けて、誠に美味なり。之をアイスクリンといふ」といった具合にアイスクリームを初めて口にしたときの感動を記している。

明治時代

1.牛乳搾取業者の台頭と西洋型チーズの翻訳書の出版

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明治に入り福澤諭吉が明治3年(1870)に「西洋事情」、明治11年(1878)に「福澤文集」を刊行して、バターやチーズを紹介し、西洋における近世の酪農乳業事情が一般国民にも広く伝えられるようになった。同時に乳牛の飼育と牛乳飲用も一般化し、多くの人々が当時の当たり業として牛乳搾取業を始めている。とりわけ、我国の牛乳市販の先駆者として知られている千葉県出身の農夫である前田留吉は牛乳飲用の普及に大きく貢献した最初の人である。また、腰刀を失った松方正義、由利公正、坂川當晴、副島種臣、榎本武揚、大鳥圭介、山縣有朋、大久保利通といった名高い元勲や士族達も牛乳搾取業を始めている。こうした人達による牛乳搾取所の開設と前後して西洋型チーズ製造技術を伝える紹介書が刊行されている。その一つが『牧牛利用説』で、前号で紹介した宇田川玄真(1769-1834)の『遠西醫方名物考』に次いで西洋型チーズについて翻訳紹介したもの中では古いものである。この『牧牛利用説』は明治8年に、内務省勧業寮から刊行され、『獨逸農事圖解』に訳載されている。『獨逸農事圖解』は全31葉からなり、『牧牛利用説』(図1)は第16番目に記載されている。『牧牛利用説』は近代日本のチーズ製造技術を伝えている点で歴史的に重要な価値をもっているが、『獨逸農事圖解』の中の一葉であることから、その名はあまり知られていない。しかし、この翻訳図説はヨーロッパにおけるチーズやバターの製造法を詳しく紹介した当時を代表するものの一つであったことは間違いなく、黒田清隆北海道開拓使の配下であった迫田喜二が翻刻した『乾酪製法記』(明治10年刊行)と並んで明治17年に農商務省から発刊された『牧牛手引草』をはじめとする明治初期・中期における乳製品製造に関する啓発書などの底本になっている。この他にチーズの製造法について記したものとして、明治12年に廣澤安任によって著された「牧牛」(まきうししょ)がある。会津藩が戊辰戦争に破れ、斗南(現在の青森県の一部)に減封移封された後に廃藩置県により斗南県となっていたが、斗南県小参事となった廣澤安任が貧困に苦しんでいた旧会津藩士のために明治5年に谷地頭(やちがしら、現在の三沢市)に洋式牧場「開牧社」を開設してチーズを造らせるために著したものである。

2.牛乳・乳製品の栄養に関する啓発と関連学術専門書の刊行

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明治5年(1872)に新政府が国学者近藤芳樹に書かせた「牛乳考」(図2)には牛乳が極めて腐りやすいものであり、飲用にあたって加熱することの重要性が記されている。本書では加熱乳のことを「煉乳」と記し、牛乳は最高の良薬であり、体を強くする滋養効果があり、日本では遠い昔から天皇や貴族に愛飲されており、いたずらに西洋を模倣して牛乳を飲むわけではないことを強調している。つまり、新政府は復古の論調によって、国民が抵抗なく牛乳飲用を受け入れることを意図し、「牛乳考」を書かせたものと推測される。この「牛乳考」には、虚弱体質の人や病人に体力をつけさせる妙薬と記されている。また、明治6年(1873)に石黒忠悳が著した「長生法」には牛乳や肉の摂取の重要性が記されている。さらに、順天堂大学の創立者である佐藤泰然の子供で陸軍軍医総監であった松本良順が「結核予防には牛乳が一番」と牛乳飲用を奨励したこともよく知られた事実である。松本良順は慶応3年に、石川桜所、伊東貫斎と連署して「医学所ヘ御預相成候白牛の儀に付奉願候書付」と題する牛羊牧養を建白したことでも知られている。その建白書は、国家の利益のため畜産の発展に投資することを目的とし、西洋の牧畜の仕法によって牛羊を繁殖し、その利益をもって医学所の拡張を図ろうとするものであった。
その他、明治末期に書かれた「牛乳及製品論」(池田貴道、明治40年)、「牛乳論」(澤村 眞、明治43年)は西洋の学術論文を引用したかたちになっており、牛乳・乳製品の栄養が科学的に論じられている。

2.明治における牛乳・乳製品の市場形成と品質検査の始まり

腐りやすい牛乳の取扱いについては早くから公的な監視がなされていた。
明治6年(1873)には東京府知事が「牛乳搾乳ニ就テノ心得」と題する通達を出し、不衛生な場所ではなく閑静な場所で搾乳することを勧め、また明治11年(1878)には警視庁が「牛乳搾取人取扱規則」を出し、搾乳器具の取扱を規制し、加水を禁じている。
「舞姫」、「高瀬舟」、「阿部一族」などの著書で名高い森鴎外(森林太郎)も東京医学会雑誌に「東京市中ニ販売セル牛乳中ノ牛糞ニ就イテ」と題する論文を発表し、牛乳が酸敗し易いことを述べ、陸軍軍医総監としての矜持を保っている。また、加藤懋・桂弥市は明治17年(1884)に「重脩牧牛手引書」を、知識四郎は明治19年(1884)に「酪農提要」を著している。前者は農商務省が刊行したもので搾乳に当たっての注意や牛乳の取扱いについての注意が詳細に記されている。また、後者は我国初めての酪農啓蒙書で、イギリス人、ウイリアム・ユーアットが著したものを抄訳したもので、ここでも牛乳の衛生的取扱が詳細に記されている。
牛乳の衛生的取扱や乳成分の分析法については東京帝国大学農科大学実科(現 東京農工大学農学部)の津野慶太郎教授の功績が甚だ大きく、今日の乳等省令の底本をなしている点で注目される。津野教授は明治25年(1892)に「市乳警察論」を著し、ついで「牛乳衛生警察論」(明治39年)、「牛乳検査法実験」(大正4年)、「乳肉衛生」(大正8年)、「牛乳検査法実験」(昭和3年)、「牛乳及乳製品検査法」(昭和13年)などが津野によって次々と刊行された。
なお、我国における牛乳・乳製品の市場形成は、最初は牛乳の市場が形成され、次いで煉乳(練乳)、発酵乳(次号)の順で市場がつくられていった。本来的に牛乳は腐りやすく、広範囲での販売は当時の交通事情から極めて難しかったことから煉乳は牛乳の腐りやすさを克服している点で、明治時代の主力乳製品であった。

大正時代~現代

1. 凝乳の登場

明治27年古都、鈴木恒吉(東京)、永田恒三郎(千葉)、日比野房吉(東京)らの牛乳業者が余乳処理の一手段として凝乳を整腸剤として販売を始めたが、本格的な製造販売は明治末期から大正に入ってからである。

明治45年に坂川牛乳店が我国最初のケフィールとして「霊品ケフィール」を、大正3年にはミツワ石鹸の創業者である三輪善兵衛(図-1)が、さらに大正6年にはチチヤス株式会社の創業者である野村保がそれぞれヨーグルトを製造販売している。また、三島海雲は蒙古民族の活力源になっている酸乳と現地で出会い、発酵乳「醍醐味」を生産、販売し、カルピス食品工業の前身であるラクトーを大正6年に創立し、今日の殺菌発酵乳である「カルピス」を誕生させた。

昭和5年には代田稔(図-1)がラクトバチルス カゼイ シロタ株の強化培養に成功し、昭和10年に「ヤクルト」の販売を開始して、今日の繁栄に至っている。
なお、第二次大戦にかけて主に軍需用として上記の「カルピス」の他、「コーラス」(森永煉乳)、「セーピス」(松田工業)、「レッキス」(昭和製乳)、「パーピス」(守山商会)、「活素」(北海道興農公社)などが製造販売されている。

2. 乳業会社の誕生と学者による啓発

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大正時代から昭和初期にかけて、これまでの牛乳製造会社の統合や合併が進み、大量生産体制が整えられていった。今日のわが国を代表する乳業会社が次々と誕生し、牛乳の普及活動にも一層の拍車がかかってきた。

一方、「牛乳及加工学」(高屋 鋭、大正13年)「牛乳問題」(里 正義、昭和2年)、「乳學」(里 正義、昭和6年)などの専門書が大学教授によって著され、ミルクサイエンスの研究が本格的に始められるようになった。ビタミンB1の発見者である鈴木梅太郎(図-1)は牛乳が栄養的に優れていることを積極的に喧伝したのみならず、我国の大学における畜産物利用学関連の教育と研究の礎を築いている。

3.戦後の畜産復興

昭和13年に国家総動員法が制定された。この法律は、戦争遂行のため労務・資金・物資・物価・企業・動力・運輸・貿易・言論など国民生活の全分野を統制する権限を政府に与えた授権法である。この法律の施行によって生活必需物資の統制がなされ、牛乳・乳製品も統制下に置かれた。そうした状況の中で畜産業が営まれたが、国民の牛乳・乳製品に対する需要を到底満たすものではなかった。昭和20年に終戦を迎えてからもGHQの統制下に置かれ、国民の食生活は窮乏を極めた。飼料用脱脂粉乳を用いた還元乳が学校給食に供されたのもこの時期である。

元来基盤の弱い我国の畜産は戦争の長期化によって飼料不足と乳牛の飼育頭数の激減がもたらされ、終戦直後はもとより統制が解除された昭和25年以降も数年間は日本の畜産業は不況を続けた。しかし、関係者の並々ならぬ努力のもとに昭和30年頃から乳牛の飼育頭数は順調に増え続け、図-2に示すように昭和63年には乳牛の飼育頭数は2,031,000頭、酪農家戸数も6,670戸に達した。それに伴い、牛乳の消費量も伸びてきた。その背景には、各家庭における冷蔵庫の普及や学校給食における牛乳の消費量の増加が要因として挙げられる。さらに、酪農家の飼育技術、搾乳技術、生乳の輸送技術の向上に伴って乳質も年毎に改善されてきた。今日では乳牛の飼育頭数は1,449,000頭、酪農家戸数も20,100戸に達し、細菌数は1ml当たり3万以下の牛乳が全体の9割以上を占め、酪農先進国並みの最高水準を誇るほどになった。


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今日、日本における牛乳・乳製品の需要量は生乳換算にして年間約1300万トンであり、このうち国内総生産量が約760万トン、輸入量が約500万トンで、58%前後の自給率を示している。

4.国際社会にみる牛乳・乳製品の健康訴求

現在、世界における牛乳・乳製品は発展途上国と先進国で明確に消費目的を異にしている。前者では牛乳・乳製品は栄養源としてであり、後者では栄養源よりもむしろ機能性と嗜好的価値に軸足を置いた消費傾向が強い。さらに、先進国では(ⅰ)消費者に近いこと、(ⅱ)健康によいこと、(ⅲ)自然であること、(ⅳ)環境と調和的であることの4つの要素が牛乳・乳製品に求められている。(ⅰ)についてはトレーサビリテイー、清潔感、消費期限の延長、高級感の観点から、(ⅱ)については低脂肪、低糖、トランス酸ゼロ、低ナトリウム、ビタミン・ミネラル強化、プロバイオテイクス・プレバイオテイクス、抗酸化性、老化防止、栄養密度の観点から、(ⅲ)については安全、高級感、清潔感の観点から、さらに(ⅳ)については企業の社会的責任から、各々要求される消費者感情である。

5.今日における牛乳・乳製品機能研究

今日、牛乳・乳製品は日本人にとって日常食になっている。他の先進国に比べると日本での消費量はまだ多いとは云えないが、消費者が牛乳・乳製品に求めるものは、安全性、おいしさ、疾病予防、体調の改善、健康の維持、健康美といった機能性であり、戦後日本人が強く求めた栄養補給それのみとする捉え方はしていない。この傾向は他の先進国でもほぼ同じであり、低脂肪(低カロリー)、減糖(低カロリー)、トランス酸ゼロ、低ナトリウム、ビタミン、ミネラル強化、抗酸化機能、老化予防(カルシウム)、プロバイオテイクス/プレバイオテイクス機能(発酵乳)などの機能を牛乳・乳製品がどれだけ発揮できるかの追求に傾いている。

国際酪農連盟(International Dairy Federation)でもこれらに関する科学的エビデンスを議論しつつ、ジェネリックな部分で牛乳・乳製品の普及に努めている。さらに、企業の社会的責任も強く求められる一方、牛乳・乳製品に限らず総ての食品に対しては(ⅰ)消費者に近いこと、(ⅱ)自然であること、(ⅲ)健康によいこと、(ⅳ)環境にやさしいことが強く求められている。また、我国においてもマーケット拡大に関しては、各メーカーによるコマーシャルは当然のこととして、(一社)Jミルクが牛乳・乳製品(また、それらの成分)の科学的エビデンスを根拠に、ジェネリックな部分での普及活動を果敢に行っている。

一方、学術の世界に目を投じると、今日における牛乳・乳製品(また、それらの成分)に関する科学研究は長足の進歩を遂げ、日本人研究者の活躍と貢献も多大である。(完)

細野 明義